The Way We Run

Photo by Chadwick Tyler

Photo by Chadwick Tyler

Original Article in English by District Vision. (C) All Rights Reserved by District Vision. Photo by Chadwick Tyler. Translated by M.Suzuki, Edited by K. from mokusei publishers inc.

Maya Singer / マヤ・シンガーは、『VOGUE』や『VICE』、『 i-D Magazine』に寄稿しているファッション・ライターであり、ロング・ディスタンス・ランナーだ。2015年、ランニングをめぐる自身の活動を、理想論に偏ることなく客観的に詳述したエッセーシリーズを『VICE Magazine』に連載している。District Visionとマヤは幾度となくランニングに関する会話をしてきた。District Visionがお送りする、リサーチシリーズの初回は、女性によるランニングムーブメントについて彼女の言葉をお届けする。

記:District Vision

わたしたちの走りかた:THE WAY WE RUN

最近、知り合いの男性何人かに時代遅れな質問を投げかけられました。女性と男性の走りかたに違いはあるのか、という質問でした。青ざめましたね。男らしさはこうで、女たるものこう、なんて概念はもうとっくになくなっているはずなのに。なんなら、彼らにできることは、わたしたちならもっとよくできますよ!ジェンダーなんてひとつの概念でしかない!“男”と“女”なんていう二元論で考えるのはやめ!などなどと思いました。わたしは、単純に“男と女”で物事を区切らない時代を生きている確固たるフェミニストなので、この質問にまともに取り合いませんでした。だってランニングは片足の前に片足を出すことでしかないから。“女”であり”女性の”生殖器があっても、走るという動作は他の人と同じですよ。

なんて言い切りたいところですが、そうでもないこともありますよね。少々お待ちを。また後ほどこの点に触れたいと思います。その前に、この質問の文脈から考えてみましょう。あるとき、わたしは女性向けの長距離レースが増えてきたことについて友達と話し合っていました。たとえば「ナイキ・ウィメンズ・マラソン、ハーフマラソンシリーズ」、「ディーバ」そして「ディズニー・プリンセス・ラン」などです。もちろん男性でも参加はできますが、実際に参加するのは女性ばかり。ピンクにグリッターに「ガールズプライド!」を主張する演出で、あたりは“女性色”ムンムン。個人的に、このようなやりくちにはハテナを抱いてしまいます。こういったイベントが考えている美的感覚は不快に感じますし、とてもじゃないけれど魅力的には見えません。

ところが、何千もの女性ランナーがこういったレースに出場しているのも事実ですよね。そこで、わたしは男友達とその理由に迫ってみました。

簡単に説明すると、あるアクティビティへの参加権を奪われた女性は、いずれかの行動を起こします。

その1

どうにかこれまで入れてもらえなかった「ボーイズクラブ」に入ろうと戦う。たとえば、1967年に女性として初めてボストン・マラソンのスタートラインに並び、公式のゼッケンを着けて走ったキャサリン・スウィッツァーが、その一例です。(豆知識:往生際の悪いレースディレクターは、彼女が数マイル走り終えたところで退場させようと追いかけて来ました。が、彼女がのほうが速くてレースディレクターが追いつけなかったりもしました。)

その2

代わりに自分たちのガールズクラブを作ってしまう。ここ数十年で膨大な数の女性専用ランニングクラブが誕生しましたが、特に「ナイキ・ウィメンズ」、「ディーバ」、「ディズニー・プリンセス」のレースには特に参加者が集まっています。これらのおかげで、ランニングブームが広がったともいえるでしょう。そしてスウィッツァーがゴールをしてから半世紀が経った今年、ボストン・マラソンの女性参加者率は43%になりました。そのうちのほとんどが女性専用のチームでトレーニングをしていると私は読みます。だって“女性たち”はみんなずっとそうしてきたし、それを好んできましたから。

“同じ自分”

要は、女性もランニングの世界に足を踏み入れ始めたわけです。たくさんの女性がビジネスの世界に足を踏み入れたことで、オフィスカルチャー、ビジネスの世界は大きく変わりましたよね。私からいわせてみれば、女性がボストン・マラソンのようなレースの出場権を得て、実際にレースコースを彼女たちが走っていることで、ランニングカルチャーは変わって来ているとということだと思います。もしランニングがほんとうに片足の前にもう片足を出す運動である、というだけだとしたら、なぜここまで大きなインパクトをもたらしているのだろう、と思いませんか?

わたしはほかの女性とは走りません。基本的にひとりで走ります。ひとりで走るのが好きだから。ピンクもキラキラも好きじゃないです。レースにエントリーするか、と思った時にレースに向けてトレーニングしてくれるトレーナーの男性は好きです。彼は背が高くて大柄で、大学ではフットボール部に所属していた手のひとです。運動においては、毎回全力で挑んで、限界を迎えたらさらに自分の限界を試す、というストイックなアプローチをします。わたしは本格的なアスリートでもありませんし、プロとして活躍した経験もありません。それでも彼のそんな方法論のせいで、とにかくストイックにトレーニングに取り組みます。だからわたしは自分のランニングに対するアプローチを“フェミニン”だと思ったことはありません。とんでもなくアマチュアだなと思ったことならありますが。

でも、トレーナーの彼とのある過酷なペース走をきっかけに、自分の考えが間違っていることに気がついたのです。そうと気づく一週間前、わたしは4マイルの自己ベストを叩き出していました。その翌週、トレーナーの彼はいつもそうするように、前回のタイムよりもわたしを速く走らせようとペースをあげました。わたしは、ついていけませんでした。先週のペースに近づくことすらできなかった。わたしは体を引きずりながら、彼に向かって、自分の体に向かって、そしてどこに向かってなんのために走っているのかもわからないこの状況に向かって、罵声を浴びせました。自分と戦うことにはもう、うんざりでした。先週と同じ自分になりきれなかったのです。

“生殖器”

「で?」ルート半ばでようやくトレーナーに止められました。

「どうしたの?」

「わからないわ」と、もごもご返すわたし。

「生理だから?」

生殖器。ランニングにおける“男”と“女”の違いがあるとすれば、それはわたし達それぞれの身体のつくりの違いによるものでしょう。わたしたち女性には生理がありますよね。排卵をすれば、妊娠し、出産し、母乳が出る。そして月経周期が再び始まる。ホルモンバランスは乱れるし、むくむし、生理痛になるし、睡眠サイクルも乱れます。女性は思春期をきっかけに、自分の身体はつねに変化するものだと肌身を持って知ります。だから、つねに自分を鍛えよう、つねに毎回全力で挑み、それを超えていこう、というスポーツの基本とされるようなイケイケの概念に対してありえないなあ、とイラっとくることがあるのです。身も蓋もないですね。

わたしが思うに、女性がランニングに与えた影響は、トレーナーの彼が放った一言に要約されています。それは、なんというか、何かを諦めるということをほのめかす一言です。「きょうのランを走ればいい」。典型的なランニングコーチのごとく、彼は格言的にそう口にしました。彼の言いたいことはわかります。それは、わたしがひとりでトレーニングするときにやっていることだから。どのランもまた違う経験なのです。それぞれのランから自分が欲しいもの、必要としているものを得られればいい。わたしたちはしゃべりながら軽いジョグをして、セッションを終わらせたのでした。

男性は「きょうのランを走ればいい」という概念が気に入っているようですが、彼らがこの概念を作り出したとは一切思いません。その一方で、限界を試すトレーニング方法を糧にするプロの女性選手もいます。でも、ランニング革命を牽引してきた女性ランナーの大半が、こういったアプローチからは一歩離れて、そのときのランに身を任せるようになりました。人と走るのが好きな人はコミュニティ感を楽しみ、わたしみたいに内向的なタイプは瞑想的なひとり時間を楽しむ。女性ランナーはそのときのコンディションに合わせてトレーニング法を変えていかないといけないので、時折ペースが低迷しますが、長い目で見ればちゃんと鍛えられます。というわけでピンクやキラキラ、そして「ガールプライド」はさておき。日によって、ランナーによって。男であろうと女であろうと。女性を中心とするレースの本質的な素晴らしさは、ランニングにおける幸せの見つけかたはさまざまであるということなのです。

(The Way We Run:了)

本サイトが提供するテキスト、情報、画像、音声等を許可なく複製、転用、改変、販売などの二次利用をすることを固く禁じます。掲載されている著作物に係る著作権・肖像権は特別の断り書きが無い限り木星社が保有します。

前へ
前へ

Running As Meditation #1

次へ
次へ

手紙