Running As Meditation #1

Photo by Chadwick Tyler

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Original Article in English by District Vision. (C) All Rights Reserved by District Vision. Photo by Chadwick Tyler. Translated by M.Suzuki, Edited by K. from mokusei publishers inc.


リッキー・ゲイツは、コロラド生まれのトレイルランナーであり、各地のトレイルや世界最古のトレイルレースの一つである「ディプシー・レース」でFKT(FASTEST KNOWN TIME:最速記録)を達成している。ノックス・ロビンソンはNYCのランニングクラブである「ブラック・ローゼス」の共同創業者であり、ロードレースではその業績をよく知られたランナーである。空気が冷んやりとしたある10月の朝、リッキー・ゲイツとノックス・ロビンソンは、ライターそしてランナーでもあるマヤ・シンガーとともにランニングとメディテーションの関係について語った。長い会話の第1回目をお届けする。

記:District Vision

メディテーションとしてのランニング 第1回

Running As Meditation #1

自分と向き合うこと

マヤ:ランニングする時はモチベーションを上げてからやる感じですか?それとも走りたくてしかたない感じ?

リッキー: しばらく時間が空いてからまた走り始める最初の1-2週間はそれなりにきついです。恐くもあれば、少しばかりの好奇心もあります。いまはやっているうちに気分が変わっていく過程を知っているし、どんなものか予想がつくので、走りたくてしょうがないですね。しばらく走っていないと、余計に。

ノックス: 私はわりと凡庸な感じでランニングライフを何とか保ってきた感じです。これといって何かを達成したこともなく、強いて言えば、13歳のときに初めて走ったレースが苦しかったということくらいでしょうか。健康面から言うと、こんな風に走り続けるのは大事だなと実感するようになりました、大人になるにつれて(笑)。最近はある程度体を動かすようにしています。それも自分のためになるように、怪我をしない程度で。それと同時に、それなりに激しい運動にも、もちこたえることができる体づくりを心掛けています。長い休みを取ったりすると、色々な意味で、また文字通り、戻って来るのが大変ですからね。

マヤ:私は走っているときに感じる、何とも言えないあの感覚が恋しいですね。この感覚はなんだか謎めいていて。走るのがしんどくて嫌いになるけど、なんで恋しくなるかわからない。もうやめてしまえ、って思うんだけど、結局続けちゃうんですよね。これが長距離の謎。一歩進むごとに「もうやめ」って思っているのに、やめられないんです(笑)

リッキー: 自分は昔から、走るのが得意じゃないと言う人に興味があって。たとえばレース後にこんな会話をすることがありますよね。例えば、私が結構いい結果でレースを終えて、別の人はそうではなったとして、その人はこんなことを言います。「君のように走るのが得意じゃないんだ」と。「君にとっては走ることは簡単かもしれないけど、私にとっては苦痛なんだ」と。でもそんなわけありません。走ると言う行為はみんなに共通していることで、速い人もいれば、遅い人もそりゃいますよ。でも、それは走るのが得意とか簡単だから、人によって結果が違ってくるということではないんですよね。

つまりですね、こんな風に考えてみてはどうでしょう。走るモチベーションや、走ろうという意志、走っている最中には苦しいこともあると受け入れられる能力、それから走ることが意味することそのもの、ということに目を向けてみるのです。これは誰にでも備わっていて、それをどれだけできるか、ということなんだと思いますよ。自分にはどういうモチベーションがあり、どういう肉体的、精神的な限界があるかということを含め、自分にどう向き合うかという違いが結果にも出てくると言いますか。


マイルストーンを見つけること

ノックス:去年の夏、私はとあるレースのスタートラインに立っていました。あれはニューヨーク州北部で行われた、30キロのトレイルランニングレースでした。コースプロファイルはかなりワイルドで、標高は10,000フィート(約3,000メートル)。蜂も蛇もいました(笑)。ルートにはセスナの胴体が衝突した山頂も含まれていて、とにかくゾッとするわけです。

そんな時、となりに並ぶ男性が私に向かってこう言いました。「君はきっと大丈夫さ。黒人はもともとふくらはぎに筋肉が多くついているらしいからね」って。私は「え、どこに?教えて」って返しました(笑)。彼は、私を見て何か確信があったわけでもありません。黒人ではなく、レース前のひとときに私に声をかけて何か言いたかっただけの白人です。

彼の言葉には知らず知らずの内に人種差別が潜んでいますが、それはさておき。スタートラインに立って10,000フィートの山を見つめているランナーがいたら、その人は今日どのあたりで限界を感じるんだろうなと思いますよね。それで「君の筋肉すごいからあそこまで登れるよ」なんて言ってしまったりもする訳です。

何はともあれ、ゴールに辿り着くには、最終的にはそのレースに際して自分が立てた構想をもとに、(レース中に、まだまだ行ける、と思ったり、辛すぎてもうやめたい、と何度も思ってしまうような、色々な感情がすべて含まれた)精神的な迷宮を紐解きながら走るしかありません。そうやって自分と向き合っていくことこそが、ゴールにたどり着く方法です。たどり着けば、の話ですけどね。

マヤ: リッキー、あなたのような人がトレイルを走っているところを想像すると、自然いいなあ、なんて考えながら颯爽と飛ぶように走ってる姿が浮かびますけどね(笑)。

ノックス: 本当にそうですよ。リッキーの代わりに言いますけど。彼、ほんとうに飛びます。リッキーと走りに行くと、こっちはついていくだけでもう精一杯なんです。こちらが、熊が茂みから飛び出てくるかも、なんて心配をしながら走っているうちに彼はばんばんトレイルを進んでいきます。

ようやく追いついたと思ったら地面に這いつくばっていて、ニューヨーク市内でコンタクトレンズを落として、必死に拾おうとしているような格好で、トレイルに落ちてるトリュフを拾っているんですよね。「朝メシにできるな」なんて言いながら、汗だくのキャップに入れていたり。すごいレベルで走り続けていると思えば急に立ち止って、あのマジックマッシュルームは食べないようにね、なんて注意してくれたりします。

マヤ:都会のロードでも同じ感じなんですかね?あ、やばい、いいコンドーム落ちてるじゃん!とか(笑)。あとで使おうかね、なんて。

ノックス: ソックスの中に入れとこ、とかね。あとで、あれ、そのソックスどこやったっけ?とかね。ちなみに、都会というかニューヨークの街なかの自分にとってのランドマークといえば、あまり知られていないメシ処ですよね。皆さんだいたいひとつはお気に入りのタコス屋さんがあるんじゃないかな。

マヤ:いい話の流れですねえ。ありがとうございます。ランドマークの話を持ち出してくれて。ランドマークと言えば、私は、4~5マイル走るごと目印というか、区切りをつけるような考えかたを、ランニング以外の生活の時間でも結構やっています。たとえばチャイナタウンにある自分のアパートを出て最初にぶつかる目印は、ウィリアムズバーグ橋で、それを越えたら、ブルックリンに入って海軍の造船所につきます。その横をさらに進むと、次の目印のヴィネガー・ヒルまで行きます。こんな風にランニングするときにやっている「目印をつける」ということをランニング以外の生活の色々なことにも当てはめているってことです。

だって目印を作れば、ここまではできて、あとは残りこれだけっていうように、ものごとの経過が図れるようになるから。どうなんですかね、あそこにあの木があって、あそこにぬかるんだ細長いくぼみがある、という感じで、自然の中でも同じように考えながら皆さんが走ってるのかどうかわかりませんけども。ランニング以外でも、生活の中で何か目印を立てながら生きていくというふうにされているんでしょうかね。

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想像することが「ヒト」を人間にした

リッキー:自然の中でも目印にできる木がたくさんありますよ。自分も目印にしているものがあります。面白いですね。というのも、出身地のコロラドに戻ると、20年以上走っているトレイルをいくつか走るんです。同じ場所にいまも変わらずある木や橋に通りかかると、20年前はここまで走れたことに感動したなぁ、なんて思い出すんです。今だとこの距離まではウォームアップ程度で走ってきてしまいますが、かつてはここで引き返していたなぁ、とか。

人生において何かをずっと続けることは、忍耐力や人間としての成長につながると思います。私は毎日、何年にも渡って「続ける何か」がランニングで良かったと思っていますが、人によってそれは何だっていいんです。自分にとっての「目印」はこれだな、と心に留めて、最初の一年はすぐに目立った成長がないな、と思いつつも止まらずに取り組んでいくと、二年経つと少し成長できたりして、三年経つと大きな進歩が遂げられたりします。毎年このような成長が望めるとは限らないと頭に入れておくことも大切で、四年目にはほんの少ししか伸びないかもしれませんし、勢いが弱まる可能性だってあります。でもランニングであろうと、人間関係であろうと、編み物であろうと、人生で追求したいことがあれば自分なりに目印を見つけて、その目印を心に留めておくことは非常に大切だと思います。

ノックス:それは、人間という種族である私たちにとってたびたび起こってきたことですよね。目印を考え、想像し、記憶する、ということは、私たちが生き延びてきた中で繰り返しやってきたことだと思います。人間はわりかし新しい生き物ですし、まだまだつまずいてばかりですけども。

私たちがお互いを「ヒト」と認識して生活するようになってから経った月日は、45,000年、65,000年、あるいは85,000年といったところでしょうか。人間が「ヒト」として進化を遂げた重要な時期に、実はランニングが大きな役割を果たしたんじゃないかという説もあります。

運動能力の向上や、火の発見、社交性や言語の獲得といったことが「ヒト」を人間らしくしたとは思いますが、脳、あるいは人間としての想像力、つまり、まだ見ぬ未来のことを考え、ある目標に向けて邁進するという力ということも、とても大きな役割を果たしたんじゃないかという考えかたがあります。ええ、お気づきの通り、こういった想像力は、まさに今お二人がおっしゃったような、目印やランドマークをもとに時間を過ごしていくことであり、あるいはランニングしているとだいたいいつもあることですよね。

「ヒト」が生きるには、わざわざ森に狩に行って、いるかもわからない獲物を3時間も、もしかしたら5時間、いやあるいは30時間以上もかけて探さないといけなかったわけです。それでもやってられるのは、獲物が必ず見つかると信じる力を持ち、ゴールについて明確な想像をしているからでしょう。さらには獲物を持ち帰るには、目印や景色を覚えておかなきゃいけませんしね。

というわけで、人類の脳がどのように構成されて、ヒトとして成り立ってきたのかということを考える手がかりはランニングにある、と思えてしかたない昨今です。こういうのは、興味がある人にしか響かない気もしますけどもね。(#2につづく)

(Running As Meditation #1了、同#2近日公開予定)

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